ホームページに注意しよう!正見を養おう!

このご時世なんでもネット検索で探すことができる。ホームページも綺麗に製作してあり、わかりやすくそれなりの記載があればその事業者のことを信用してしまいがちになります。最近では寺のホームページも増え、宣伝のために活用している寺院も少なくありません。

当寺院『純聖寺』もそれは否定しません。しかしながら、誇大な表現で、叶わないことを記載し誘導していくようなホームページをよく目にします。私の見識からはおかしいことだらけです。知らないということは信用してしまいまいますから怖いことです。特に寺院活動はビジネスではありません。少しそのような気のあるところは正しい目を持って判断しなければなりません。

真言宗僧侶入門時にある弟子へ私の思いを伝えたことがあります。『欲に目がくらむ者に利他はない』寺院は困った方の駆け込み場所です。自利から利他へ(自身を正しく磨き手を差し伸べる)これが僧侶のあるべき姿であると思います。自身が欲で動くならば人はそんな坊主に相談などしません。正式な僧侶活動を忘れてはならない。そのようになれば僧侶としての仕事はなくなり、やがて僧侶ではなくなるのです。

※加工画像の宣伝ばかりで院内の様子もほとんどなく、主たる方の顔も出さず身元も明らかに公表されていないのはいささか疑問に感じざるを得ません。

メッキがはがれ真相を知ったときに「遅かった」と後悔しないように、あらゆることをご自身の目でしっかりと確かめること!ネットだけに頼らないようにしていただきたいと思います。

 

1月19日(日)は午前10時からと午後14時から今年初めての定例護摩です。真言密教僧の本分を忘れずに頑張ります!

 

理不尽な、お詫び

正見を持って、この記事を読まれまれている方はお察しのことと思います。長期に渡る理不尽さ、この状態に苦言したい毎日です。私があえてこの場所にいるのはもうこの世には存在しないが義理があるからです。約束、守らなければならないものそれがあるからです。それを破ることは本分を全うすることにならないからです。世の中はきっと先入観や偏見があるかもしれない。しかし、そう思うものと当方は全く異質なものであるとどうぞご理解いただければ幸いです。しかしながら、畏れ多い方々にご迷惑をおかけしていること、当方から申すのは理不尽極まりなく思いますがお詫びを申したい気持ちでいっぱいです。聖行派は本分を全うするのみでございます。

本日、初不動!

本日は今年初めてのお不動様のご縁日でしたので不動一段尽護摩を修しました。

一座目は本日、午前4時半から

二座目は本日、午前11時頃からでした。

 

我が家の愛犬!

今年の12月で16歳おじいちゃん犬のリッキーくん。16歳にしては元気です。ちょっと歳だと感じることも多々ですが。。。留守中にやっちゃってるね。。。まあしょうがないね。元気で長生きしてください。たまにはこんなブログもよいね!笑

消えゆくこころ 変わりゆくこころ 惑わされるこころ

金峰山寺に足を運んだ回数も十回は超えました。ここのところ毎年金剛蔵王権現の御開帳が春と秋にございます。数百年間秘仏であったのが数十年前に御開帳になったとき、それはそれは色鮮やかな圧巻の仏様に心清められるおもいでございました。そして、ありがたく参拝される方の清き心と同調し心底『よかった』と思えました。しかしながら、ここ数年足を運ぶも訪れる方のマナーも悪く、騒音を立てるバイクや参道を遠慮もなくスピードを落とさずに走る車など、また、参拝ではなくピクニック気分で訪れ参道を大きな声でお下品な会話をされたり、まったく参拝とは無関係です。蔵王権現も古くなったお寺の修復のために御開帳を頻繁にしているのですが、数年前よりも色があせてしまい迫力がうすれお疲れのように見えてなりません。まるでこの世の人間の不純さに疲れてしまっているようです。この仏を制作する過程を考えると現代の技術がいくら進歩したとはいえ到底同じものを作ることは難しいと思います。そこには信仰からなる人々の純粋なこころがあったのだと思います。それがあったからこそこ蔵王権現をつくれたのだと思います。いくら文明が発達しようとも人は非力自然には勝てません。都合の良いものなどありません。便利に惑わされてはいけません。人は自然の中で生かされている。そのことを肝に銘じなければなりません。『ありがたい、ありがたい、感謝!感謝!』消えゆくこころ 変わりゆくこころ 惑わされるこころ おごるこころを持たなければこのようにはなりません。『謙虚に慎ましく』生きることが大切なのだと思います。

俗名での葬儀は非常に難しい

姫路での僧侶派遣の依頼がありました。後のお寺とのお付き合いが不可能な為、白木の位牌の処分にも困るので俗名で葬儀だけしたいという。ご家族様の事情を尊重するも複雑でした。結論から申しますと俗名での葬儀は仏教のしきたりではタブーだからです。通常は仏様のお弟子にならなければ戒や引導を渡せません。つまり仏様になれないのです。弟子にしていただくためにはちゃんと戒名というお名前をいただかなければなりません。式中に初七日も依頼されましたが本来はこれもタブー。四十九日まで七日ごとに仏様の教えを受けるための法事になります。俗名での葬儀をしてしまうと故人様がその教えを受けることができないのです。僧侶としましても俗名では仏様にお弟子ですと橋渡しができません。嘘は申せません。僧侶としては複雑な弔い方でございました。せめて地獄道に落ちないようにのみさせていただくことしかできません。後はご親族様が故人様を一生懸命に供養なさることをお祈り申し上げます。この世は利便に尽きると安易なお考えはご法度です。故人様のこの世での最後のお見送りです。ご家族様の事情もおありであると思いますがせめてそれならば戒名ありの火葬式の方が弔いの方法としては簡素ではございますが故人様も浮かばれるのではないかと存じます。重ねて『この世は利便に尽きると安易なお考えはご法度!』です

安易なものには必ず裏がある

今日、早朝からタップビジネスで80万円をだまし取られたというようなニュースが流れていました。騙すことは罪!しかし、騙される方も欲に魅せられたと言われれば否定できない。『正見』仏教にはこのような言葉がある。正しい物の見方という意味である。都合、勝手、欲など、正しく物事をとらえる目が現代人は衰えて行っているような気がします。そこには人を思いやる心が失われているように感じる。その背景が最近よくわかるのが葬儀の簡素化だ。時間を急ぐ人の文化は仕方がないのかもしれない。しかし、弔う気持ちまで簡素化になってはならない。新しく参入する葬儀業者・僧侶派遣・白木の位牌処分や仏壇を処分する処分業者利用するなら『正見』を持って見るべきである。しかし寺院はビジネスではない昔も今も変わることなく弔うことを仕事としていることを忘れてはならない。どうぞ『正見』を持って見ていただきたいと思います。

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